札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「律法によって罪を知る」

更新日:2019.11.5

ローマの信徒への手紙7章7-13節 (新約282頁)

米倉 美佐男牧師

「律法は罪であろうか。決してそうではない。」(7節)

律法に縛られるのでなく、霊に従う新しい生き方で仕える。パウロはキリストに仕える新しい生き方を覚えながらも自らの内にある罪の問題を取り上げ、より高い段階に行こうとしています。真正面から律法と罪を取り上げ、律法があるから罪も明らかになるし、律法がなければ罪を罪として認識することは無いと言うのです。「むさぼるな」と律法にあるからむさぼりを知るのであってそうでなければむさぼるという自覚もないのです。

罪は掟によってあらゆる種類のむさぼりを自分の内に起こし、律法がなければ罪は死んでいる。かつては律法とかかわりなく生きていたが掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死んだと言う。キリスト教の信仰そのものが問われています。「律法によらなければ罪を知らなかった」。律法は廃棄されたと前に言ったがだからと言って律法は罪なのか、断じてそうではないのだ。律法によって罪を知らされるのは事実です。だからと言って律法そのものが罪なのではないのです。

罪を罪と知ることはとても大事です。己の罪を認めず他人の罪を責めることは誤りです。パウロは自らの経験に基 づいて律法の性質、律法と罪との関係を明らかに示しました。律法や掟は判定はしますが即それが力とはなりません。それは沈んでいた罪を浮上させ、浮き上がらせる役目をするのです。だからと言って律法や掟が罪ではないのです。私たちは律法、掟によって自らの罪を自覚させられるのです。人間が律法から罪を知らされ、自らが罪人であることを知った時に本当の悔い改めがおき、本当の救いを得ることができるのです。それが福音です。そこに真実の希望があります。そして永遠の命、復活への喜びへと導かれるのです。福音を正しく受けるために律法、掟があるのです。

(2019年10月27日礼拝説教より)

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