札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「心から兄弟を赦す」

更新日:2017.10.10

マタイによる福音書18章21-35節(新約P35)

牧師 米倉 美佐男

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(21節)

ペトロが主イエスに問いました「何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」、罪の赦しについて問うたのは前からの関連です。主イエスは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われます。これは490回という回数の問題ではなく完全な赦しを命じておられるのです。ペトロもそのことを良く知った上での質問でした。イエスはペトロに考える以上の無限の赦しをせよ示されたのです。

「天の国は次のようにたとえられる。」と主は言われます。そして次のたとえを話されました。王から一万タラントンという莫大な借金をした家来が返済できず、王は全額帳消しにしてあげました。ところがこの家来自分が貸した百デナリオンを貸した相手がひれ伏して待ってくれとしきりに頼んだにもかかわらず、赦さず牢に入れてしまいました。これを知った王は怒り、その家来を呼びつけてその非道を叱り、牢役人に引き渡しました。そして、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35節)

ここのたとえの前半はまさに主の十字架そのものです。我々の神に対する負債、罪の借金はどんなに逆立ちしても返しきれません。それを赦していただいたにも拘わらずと言う事なのです。神の憐れみによって贖われたのです。それが聖書の「愛」なのです。そして借りたものは踏み倒したもの勝ちでなく、返すのが当然です。話は自分は赦されたにも拘わらず、人を赦せない偏狭さ、それがまさに人間の罪の問題であることを指摘されているのです。さらにこのように言えるのです。家来の貸した百デナリももとはと言えば王から、神から頂いたものなのです。それなのにということです。憐れまれたのだから憐れむべき、愛されたのだから愛するのです。主の十字架のみが赦しの根拠です。

(2017年10月1日主日礼拝説教より)

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