札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

礼拝について

主日礼拝(しゅじつれいはい)

全てのキリスト教の礼拝は日曜日に行われます。私たちの主と仰ぐイエス・キリストが十字架にて死なれ、三日目に復活されたのが日曜日でしたので、主の復活を祝う日曜日を「主の日」として礼拝をするようになったのです。

礼拝(れいはい)

礼拝とは神を崇め、讃美するために行う大切な宗教行事です。この世の全ては神によって創造されました。
私たちの全ては神の御手の中にあります。しかし人間は古来そのことを忘れ、神に逆らう日々を過ごしてきました。
神は悔い改めず逆らい続ける人を罪びとと定めましたが、大きな愛をもって御子イエス・キリストをこの世に遣わしました。
イエス・キリストは自らの命を贖(あがない)とすることによって、私たちの罪を救ってくださいました。
私たちはこの救いの恵に感謝しつつ、それでも尚神を忘れ逆らう日々の罪を思い、悔い改めることにより再び赦されることを主イエス・キリストを通し神に願い、神を崇めて讃美する礼拝を行います。
礼拝は前奏に始まり、後奏に終わります。

前奏(ぜんそう)

礼拝の始まりは前奏といわれる厳粛なオルガン演奏です。
一週間の自分が常に神を覚え、み心に適う生活をしてきたかを振り返る時です。
心を静めて礼拝に備えます。

招詞(しょうし)

司式者は神がこの教会に皆を招かれたという神の言葉を読み上げます。神により集められて礼拝に参加できる恵に感謝しましょう。

讃美歌(さんびか)

キリスト教と音楽は深い繋がりがあります。特に宗教改革以後の礼拝は有名な作曲家が信仰の証として多くの讃美歌を残しました。札幌教会では日本基督教団が定めた「讃美歌21」を使用しています。

交読詩編(こうどくしへん)

詩篇は旧約聖書に収められた神を讃美する美しい詩集です。司式者と会衆とが交互に読みます。
讃美歌集の後ろに掲載されているのもあります。受付には交読詩篇専用の冊子を用意しています。

聖書朗読(せいしょろうどく)

司式者は本日牧者が語る神の御心を示す聖書を読みます。聖書には旧約聖書と新約聖書があります。
旧約聖書はイエス・キリストがこの世に遣わされる以前に神が人間と交わした契約を記述しており、新約聖書は主イエス・キリストがこの世で語られた言葉や行いを通して示された新しい契約を、弟子たちの記述によって証されたものです。
聖書こそが御心を示す最大の正典です。札幌教会では新共同訳を使用しています。

司式者祈祷(ししきしゃきとう)

司式者は教会の役員又は役員経験者が交代で務めます。司式者は会衆を代表して、神への感謝と、悔い改めを表明します。そしてイエス・キリストこそが教会の頭であり今この礼拝に主がご臨席賜うことを祈ります。そして聖霊が御言葉を語る牧者を強め、会衆の心を開くように祈ります。また悲しい事件や災害にあった人々に神の慰めがあらんことを祈ります。
祈祷の最後には「この祈りを主イエス・キリストのみ名により御前に捧げます」という言葉がのべられます。
主イエス・キリストは「私を通して神に祈られたことは神によって適えられる」と約束してくださいました。
会衆は「アーメン」と応答します。「そのとおりです」という世界共通の言葉です。

使徒信条(しとしんじょう)

札幌教会では月の初めの礼拝では「日本基督教団信仰告白」を告白し、それ以外の礼拝では「使徒信条」を告白します。
使徒信条は週報の裏に印刷されています。キリスト教の信仰をどのように告白するか、多くの論議がなされました。現在集約された信仰告白がこの「使徒信条」です。

「使徒信条」解説

使徒信条は共同体としての教会において、この信仰は共通であるとの基準を示すものです。

我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。
神は全宇宙を創造されました。天も地も造られました。神の形に似せて人を造られました。全てのものは神により造られた「被造物」です。私たちの生命も神が造られたものです。神が与えてくださった賜物です。
天地を造られ、全てを支配されている神は全能です。その全能の神を「父なる神」と言えるのは、主イエス・キリストは神の子であり、イエス・キリストを主と仰ぐ私たちも同様に神の子とさせて頂いたからです。
私たちは全て神のみ手のなかにあります。父なる神に全てを委ねましょう。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
イエスは人の名前であり、キリストとは救い主のことで、罪〔神への反抗・無視〕の赦しと解放をしてくださる方のことです。私たちを神との本来あるべき正しい関係に戻してくださる方が神の独り子主イエス・キリスト。
キリスト教とはそのイエス・キリストのすべてをを信じることを本質としています。主イエス・キリストは神であると同時に人であることを信じます。主イエス・キリストによってもはや神から引き離されないことを信じます。
主イエス・キリストを通してのみ私たちは父なる神のみもとに行くことが出来ると信じます。
「イエス・キリストは主である」という告白はキリスト者の原点であり、このことは父なる神を崇めることに他なりません。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ
このことは神が人となられたことを言い表しています。神がそこに宿られたのです。
そして本当の人としてマリアより生まれました。主イエス・キリストは神であり人なのです。
マリアは神の言葉に忠実な女性として評価されますが、聖母として神聖化されることはプロテスタント教会ではありません。
※プロテスタント教会:16世紀におこった宗教改革に賛同して設立した教会。
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
使徒信条で主イエス・キリストの生涯は苦しみを受けたと集約しております。主イエス・キリストの生涯は神が人として降誕した初めと、受難・十字架の死・そして復活と昇天の終わりからくる光として視ています。
主イエス・キリストは私たち人の罪のゆえに苦しみをうけられました。私たちの神に対する罪は神の怒りを負うものです。その神の裁きを主イエス・キリストが生涯の苦しみをもって引き受けられたのです。
十字架につけられ
十字架で主イエス・キリストが処刑されたことの意味を聖書は「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」と記述しております。すなわち主イエス・キリストの死は神のご意思なのです。主イエス・キリストが私たちの罪を贖い解放してくださったことにより、私たちは神との和解をすることが出来たのです。
死にて葬られ、陰府(よみ)に下り
主イエス・キリストは十字架にて死に、墓に入れられました。主イエスは死者の世界に入られたのです。
主イエス・キリストの救いは生きている者のみならず、すでに死んだ者にも及びました。
三日目に死人のうちより甦り
福音書の福音(ふくいん)とは良い知らせの意味です。キリスト教でもっとも良い知らせは『主イエス・キリストが甦った』という知らせであります。主イエス・キリストの復活は多くの人々が証言している歴史的事実であります。復活の日曜日に弟子たちは復活を祝う礼拝を始めました。
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり
復活したイエスは40日間弟子たちと過ごした後に昇天されました。昇天した主イエス・キリストは神と同体となられました。そして今も私たちの執り成しをしてくださっています。『わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる』と主は言われます。
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
主イエスは再びこの世に来られるという信仰は初期教会ではそれほど遠い先のことではないとされていました。主の再臨は多くの迫害に耐える拠り所でした。「終わりの時」の信仰は今でもキリスト教の柱です。
何時の日か主が再び来られ、生きている者と死んでいる者とが神の審きを受けることになるという信仰です。イエス・キリストを主と仰ぐ私たちにとっては、神の完全支配が実現するすばらしい時となります。
しかし主イエス・キリストは「私は世を審くためではなく世を救いに来た。私の言葉を受け入れない者に対しては審くものがある。」と言われています。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
キリスト教には「三位一体の神」という中心的教義があります。神とは「父なる創造の神」、「独り子イエス・キリスト」そして「聖霊」の総称であります。神は唯一の神でありますが、三つの表れ方があります。
父なる神と御子イエス・キリストは親子の二人の神ではなく二つの表れかたなのです。聖霊も神の表れ方の一つです。それは私たちを導き・支え・命令し・支配し・啓示する生命的力です。聖霊は私たちのうちに留まります。聖霊の働きによって私たちは信仰を育てることができるのです。
しかし聖霊は神の自由な賜物ですから祈らなければ私たちのうちに留まってはくれません。
聖霊はキリスト者個人に働くだけでなく集団に対しても働きます。聖霊は信仰共同体としての教会を造ります。神に召された人達により、聖霊の導きのもとで礼拝が始まります。神の召しが行われます。
この教会は建物を意味するものではありません。神に召された人々の集まるところ、礼拝のなされるところが教会なのです。公同の教会は主イエス・キリストを頭とする教会です。そこには神に召された人々「聖徒」に対する聖霊の働きとしての交わりがもたれます。
聖霊は主イエス・キリストによる罪の赦し・身体のよみがえり・永遠の生命についても究極のみ恵みとして信じる信仰へと導いてくださるのです。

説教(せっきょう)

牧者が聖書に示された御言葉により神のご意思を伝えます。心を開き傾聴しましょう。

主の祈り(しゅのいのり)

イエス・キリストが祈りはこのようにしなさいと自ら示された祈りです。週報の裏面にも掲載されています。
この祈りはマタイによる福音書6章9節から13節とルカによる福音書11章2節から4節に記載されています。札幌教会では多くのプロテスタント教会と同様に文語体の言い回しで祈ります。
主の祈りをキリスト者はあらゆる時に祈ります。惰性になることなく常に一言一言を真剣に祈りましょう。

「主の祈り」解説

主の祈りは主イエス・キリスト自らが示した祈りです。マタイによる福音書6章9-13節とルカによる福音書11章2-4節に示されています。それぞれの聖書の形成の違いにより多少異なっていますが、現在普遍化 されて使われているのはマタイ福音書に示されている祈りを基にしたものです。

天にまします我らの父よ
主イエス・キリストは神を幼児語のお父さんを意味する「アバ」と呼びかけています。神の子である主イエス・キリストは、私たちをも含む「我ら」として「お父さん」と呼ぶことを私たちにも許るされました。 「天にまします神」は神の超越性を示しますが、主イエス・キリストによって、父と呼ぶことが赦されたのです。
願わくはみ名を崇めさせたまえ
「み名」とは神ご自身のことです。「崇める」とは聖なるものになるとのことです。私たちが常に畏れ敬いながら生きていくことが出来ますように、聖霊よ働いてくださいという祈りです。
み国を来たらせたまえ
「み国」は神の国です。神が全てを支配されている国です。神の国はすでに私たちに示さされていますが、完全なる支配がこの世に実現するのは主イエス・キリストの再臨の時とされています。
みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ
「みこころ」は神の心であり、神のご計画です。神のご計画が天で実行されているようにこの地でも実行されてくださいという祈りです。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
この祈りは率直に生命維持に必要なもっとも基本的なものを与えたまえと願うものです。
全ての食べ物は神に与えられた恵みです。感謝して食べましょう。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ
「我らの罪」は法律的道徳的な罪ではなく、神に対する罪を意味します。神の大きな恵みを頂きながら神に従わない罪です。我らに罪を犯すものの罪は新共同約聖書では「負い目のある」人としています。 神に罪の赦しを求める前に、他人と和らがないで良いかとの問いであります。マタイによる福音書では主の祈りのあとに「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたたがたの過ちをお許しになる」と付加しています。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ
神に服従しようとするときに様々な障害が生じます。それは神が与えられた試練の場合と、神に従うことを妨げようとする「悪」の力による場合があります。聖霊の力によってわたし達を守ってくださいとの祈りです。
国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり
主の祈りの終わりは「頌栄」と言われる祈りです。この頌栄は讃美であり信仰告白といえます。 国も力も栄も人が造れるものではなく、神のみが全てを創っておられるのだという基本的・根本的な信仰の告白なのです。
アーメン
キリスト教の祈りはアーメンの唱和で終わります。
この祈りが「まことに、たしかにそうなりますように」との祈りなのです。

奉献(ほうけん)

献金です。神から与えて頂いた恵みへの応答です。礼拝に参加出来た感謝を込め、神の御用のために用いて下さいとの祈りをもって捧げましょう。 金額は自由です。

頌栄(しょうえい)

神への感謝と神の完全なる支配の時が早くこの世に来るように祈り歌います。

祝祷(しゅくとう)

牧者による最後の祈祷です。送り出しの祈祷とも言われ、「神により祝福された会衆が次の礼拝までみ言葉に立つ生活が出来るように」との祈りです。

後奏(こうそう)

今日の礼拝により信仰をより深めることの出来た感謝をしつつ聞きましょう。

札幌教会の聖餐式について

聖餐式はキリスト教会の重要な宗教儀式です。イエス・キリストが最後の晩餐の時に、パンを裂き「これは 私の体である」、ぶどう酒の杯をとり「これは私の血である」と言われました。
それからの2000年の教会において、イエス・キリストの体と血を頂くこの儀式を霊的神聖性をもって執行してまいりました。札幌教会はこの伝統を重んじ、日本基督教団の定めるとおりに洗礼を受けた人のみを対象として聖餐式を行います。
洗礼を受けていない方は静かに祈りつつお待ちください。
そして主との出会いを受け入れて、一日も早く洗礼を受けて、いっしょに聖餐に与って下さることを祈っています。