札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「山上の説教」

更新日:2016.3.14

マタイによる福音書5章1-12節(新P6)

牧師 米倉 美佐男

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(12節)

1節に「イエスは・・山に登られた」とあります。それで5章から7章までを「山上の垂訓、山上の説教」と呼んでいます。周囲には弟子たちを始め、主イエスを信じた人々、また求道中の人たちがいました。それらの人々に向かって主イエスは「あなたがた」と呼びかけられました。今朝の記事には「幸いである」が何度も繰り返されて教えられているので、ここは「幸いの教え」として知られています。

「幸い」とは何でしょう。主イエスはここで幸いの定義をしているのではありません。幸いだという事実をストレートにお語りになられたのです。幸せになる秘訣を伝授して、こうすれば幸せになれるよ、というのでなく、今既に幸いである事実を知らせて、そのグッドニュースによって新しい人生のスタートを始めなさいと勧めているのです。

ここで、「幸いである」と語られている人々は「心の貧しい」、「悲しむ」、「柔和な」、「義に飢え渇く」、「憐れみ深い」、「心の清い」、「平和を実現する」、「義のために迫害される」人々です。柔和、憐れみ深い、心の清い、平和を実現する人々は幸いと結びつきますが、どうして、心の貧しい者が幸いなのか、悲しんでいる人が幸いなのか分かりません。先に申したように、定義でもなく、説明でもなく、「幸いである」という事実宣言です。なぜなら、神がそのような者を祝福してくださるから幸いだと、言われるのです。その人の境遇ではなく、神の御意向により、幸いなのです。いくら恵まれていても富も才能も、健康も、感謝も喜びもなければ、高慢になります。たとえ貧しくてもそこに神の恵みを感じることができるなら幸いであるのです。

(2016年3月6日受難節第4主日礼拝説教より)

前のページに戻る