札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「二度の大なぎ体験の恩寵」

更新日:2015.7.21

マタイによる福音書8章23-27節(新P14)
マタイによる福音書14章22-33節(新P28)

阿久戸 光晴牧師

マルコ福音書8:22〜26に、主イエス・キリストが二度の「手当」により目の不自由な人を癒すエピソードが出ています。「見える」とは霊的認識です。はじめは「人が見えます。木のようですが…」程度のイエス認識であったものが「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるように」なります。ここに信仰の成熟が示されています。マルコ・マタイ両福音書にはこの二度が多く、パンの二度の奇跡しかり、そして今朝の嵐や逆風後の二度の大なぎ体験です。
「嵐」は突然私たちを襲う外的内的試錬のことであり、「舟」はその中を生きる(ペトロらに始まる)教会共同体の象徴です。そして二度の嵐・逆風と二度の大なぎ体験は私たち人間の信仰の開眼と成長物語となっているのです。
第一の体験では、弟子たちのそばに主イエスがおられ、父なる神への信頼のうちに眠っておられますが、激しい嵐がやってきて弟子たちは主を起こしてしまうのです。一度目の大なぎがやって来ます。弟子たちは平安になります。これは私たちの受洗のきっかけとなる体験ですが、まだイエスという「人が見えます。木のようですが…」の段階でしょう。しかしまもなく第二の試練がやって来ます。
第二の体験では、弟子たちのそばに主イエスは一見そばにおられません。主は昇天後のように山(天)で祈っておられます。孤児のように残された弟子たちは逆風に悩まされます。すべてがうまくゆかず、内的恐怖・絶望に襲われています。そこに主イエスが山から駆けつけてくださいます。水を歩いて。しかし弟子たちはご復活後の主を見たように、せっかくの現臨の主を見て「幽霊だ」と思います。初めの信仰がまだ生きていません。主は「安心なさい。わたしだ」と言われ、ご自身を顕わされます。「わたしだ」とは原語で「わたしは(ここに共に)いる」の意です。ペトロは水を歩いて主のそばに行きます。信仰者も波を超えられます。しかし風を恐れて溺れかけ、再び主に救い出されます。再び大なぎがやって来ます。ペトロら弟子たちは「本当にあなたは神の子です」と真の信仰告白に至り、献身者へと創られます。これは、私たち信仰者の霊的成長のためにご計画される神様の二度にわたる恩寵です。

(2015年7月12日礼拝説教より)

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