札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「復活と命の主を信じる(ヨハネ30)」

更新日:2022.7.11

ヨハネによる福音書第11章1-27節

小林克哉 牧師

村の多くの人たちが、ラザロの死の知らせを受け、マルタやマリアを慰めるために来ていました。死という現実を前にして、人は何を言うことができるでしょうか。慰めることで精一杯です。いや本当は言葉も出ないのです。だからそういう時に言う決まった言葉を口にする以上できない。でもイエスさまは違います。イエスさまは愛する者のため、十字架で命を捨てるお方として言われるのです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」(25節)
この御言葉は、わたしが牧師になってから、葬りの務めをなすとき、葬儀で必ず読んできた聖書の言葉です。愛する者の死を前にして悲しみ嘆く人々を前に、わたしには語る言葉はありません。しかし、愛する者の死を経験している方たちに、十字架で死に、三日目に甦られ、今も生きておられるイエス・キリストが、語りかけておられることを証言することができます。生ける主、命であられるお方、復活であられるお方があなたがたに今こう言っておられるのですと。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25節)
マルタは答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(27節)マルタはよく分かっていたでしょうか。わたしたちは分かっているでしょうか。わたしたちはイエス・キリストに結ばれ、今すでに神との生ける交わりである命を与えられ、「アッバ、父よ」と呼び、「愛する子よ」と呼んでいただいているのです。よく分かっていないかもしれませんが、神との永遠の命の交わりが既に始まっており、死はもはやわたしたちを支配する力を奪われているのです。信じるわたしたちはもはや死の支配に服することなく、神の国に目覚めるためキリストにあって眠りにつくことになるのです。そして終わりの日に栄光の体に復活させられるのです。
わたしたちがどうであれ、命であられるお方はわたしたちに命をお与えになることができるのです。復活であられるお方はわたしたちを復活させることができるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25節)アーメン

(2022年7月3日礼拝説教より)

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