札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神は我々と共におられる(マタイ②)」

更新日:2024.1.22

マタイによる福音書 第1章18-25節

小林克哉牧師

夫ヨセフは妻マリアを離縁しようしました。胎に宿っている子は常識的に考えれば不倫の子です。当時は明らかになれば石打の刑により母も胎の子も死刑にされる定めでした。
マリアは天使が現れ聖霊により胎に子が宿ったことをヨセフに説明したかもしれません。理解してもらえないと初めから説明しなかったかもしれません。夫ヨセフにわかってもらえず孤独だったのではないでしょうか。
ヨセフもまた孤独だったでしょう。マリアに裏切られたかもしれない。聖霊によって宿ったとしても、家族や周りの誰がそれを信じるというのでしょうか。ヨセフは決断します。ひそかに縁を切ろう。そこに人間の罪の現実があるのです。もしマリアを放り出していたらどうなっていたでしょう。
しかし神が介入されます。「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」(20-21節)ヨセフは神の言葉に従いました。
「イエス」はヘブライ語名で「ヨシュア」、主は救うという意味の名前です。救うとは罪から救うことだと言われています。聖書が語る罪とは何でしょうか。それはわたしたちを創り命を与え生かし愛していてくださる神に背くことです。神との関係の破れです。そこから人と人との関係の破れが生じるのです。ヨセフは神を信じられなかった。だからマリア(人)を信じられなかった。しかし神を信じ、マリアを信じるようになる。罪から救われるのです。
救い主イエス・キリストにより、わたしたちは罪赦されて神との和解を与えられるのです。罪から救われ神はわれわれと共におられるのです。イエス・キリストによりインマヌエルが実現したのです。たとえ苦難の日があったとしても、もう罪は問題にならない。神は共にいてくださることを信じて歩むことができるのです。アーメン

(2024年1月14日礼拝説教より)

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