札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「心騒がせ 祈ってくださる主(ヨハネ35)」

更新日:2022.8.16

ヨハネによる福音書第12章27-50節

小林克哉牧師

今朝の箇所はヨハネ福音書におけるゲツセマネの園の祈りと呼ばれることがある箇所です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(=十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ福音書第14章36節)ヨハネによる福音書にはこの祈りは記録されていませんが、イエスさまは繰り返しそのようなことを祈っておられたのかもしれません。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時(=十字架)から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のため(御父の御心を行うため)に来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27-28節)
イエスさまが祈られるのは、御父の救いのご意志が実現するためです。それはイエスさまの十字架の死により、ご復活と昇天により実現する罪と死からの贖い、永遠の命が与えられることです。イエスさまはだからこそ人々に言われるのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(35-36節)
暗闇にいると、だんだんそれに慣れてきて、それが暗闇だと分からなくなります。しかし光が来ると、暗闇にいたのだとはっきり分かるのです。信じていないと、信じていないことに慣れてきて、それが当たり前のことだと思えてくるのです。しかし信じると暗闇にいたことが分かるのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(46節)
イエスさまは光として来てくださったのです。光のあるうちに洗礼を受けたらいい、だから信じなさいと言われているのです。イエス・キリストが来てくださっているのです。そうであるなら、あなたが今どんな暗闇の中にいるとしても、主が光となっていてくださるから大丈夫なのです。そして、光であるイエス・キリストと一つとされている光の子として、わたしたちもまた誰かのために祈っていきたいと願います。

(2022年8月7日礼拝説教より)

前のページに戻る