札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「主が共におられなければ」

更新日:2021.9.3

マルコによる福音書6章45~52節(新73頁)

小林 克哉牧師

イエスさまは湖の上を歩くことまでして、湖の真ん中で漕ぎ悩む弟子たちの所に来てくださいました。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)と言われるのです。
弟子たちはイエスさまが祝福された二匹の魚と五つのパンを人々に配り、5千人以上の人々が満腹するパンの奇跡を体験していました。弟子たちは自分たちも何かできると少し自信を持ったかもしれません。イエスさまはそんな弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に向かわせられます。弟子の中には元漁師が四人もいましたから、自分たちだけで辿り着く自信があったでしょう。ところが、湖の真ん中くらいまで来ると逆風が吹いて来て、自分たちの力(知恵や経験)では前に進むことができなくなり、漕ぎ悩み疲れ果てていたのです。一人一人の人生でも、教会でも漕ぎ悩むことがあるものです。
イエスさまは弟子たちを見ておられました。弟子たちのために祈っておられました。しかし弟子たちはそんなイエスさまの姿が見えないのです。わたしたちのために祈っていてくださるイエスさまが見えなくなるところに、わたしたちの罪の姿があるのです。イエスさまは弟子たちを憐れまれるお方です。湖の上を歩く奇跡をもってまでして弟子たちのところに近づいて来られました。弟子たちはすぐ近く共にイエスさまがおられるのに気づかず幽霊だと思いました。わたしたちはすぐ近くにおられるイエスさまの姿が見えているでしょうか。
イエスさまが舟に乗り込まれると風は止みました。そして心が鈍くなっていた弟子たちを乗せ、舟は向こう岸に辿り着くのです。弟子たちが祈ったからでも、よく分かるようになったからでもなかったのです。ただ主の一方的な恵みなのです。わたしたちは、主がともにおられなければ何もできない、前に進むことができず、漕ぎ悩むことがあるのです。イエスさまはそんなわたしたちのところに来てくださっています。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)と言っておられます。

(2021年8月29日礼拝説教より)

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