札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「だれを捜しているのか(ヨハネ47)」

更新日:2023.1.16

ヨハネによる福音書第18章1-11節

小林克哉牧師

イエスさまは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」(第13章1節)ました。弟子たちの足を洗われ、訣別の説教を語られ、弟子たちのために祈られます。そして立ち上がりギドロンの谷の向こう、ゲツセマネの園へ行かれたのでした。「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。」(2節)イエスさまはわざわざ裏切るユダが見つけやすい場所へと行かれたのです。
イスカリオテのユダはなぜイエスさまの弟子となり、そしてイエスさまを裏切ったのでしょうか。ユダはユダなりにメシア(救い主)を捜し求めていたのではないでしょうか。イエスさまに召され、このお方がメシアに違いないと思い従っていたのでしょう。しかしイエスさまのお姿はユダが思い描くメシアではなかったのかもしれません。ローマ帝国を剣を持って打ち倒す政治的・軍事的メシアではなかったのです。ユダは、イエスさまがローマの兵士に囲まれれば、さすがに御力をもって打ち負かすに違いないと、最後の賭けに出たのかもしれません。
イエスさまはユダが裏切ることを知って、ユダが見つけやすい、ゲツセマネの園に赴かれるのです。一つには、イエスさまが自ら十字架を引き受けられることが示されます。そしてもう一つのことが言えます。イエスさまが、裏切ることを分かった上で、それでもユダを信じ、ユダを愛し、愛し抜かれたということです。裏切ることを分かって信じるというのは難しいことです。わたしたちにはできないことでしょう。しかしイエスさまは神の聖なる愛をもって、ユダを信じ、愛し愛し抜かれたのでした。ゲツセマネの園でユダが出会うのは、自分の考えや思いを遙かに超えるマコトの神です。
「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。」(4-5節)ほかに捜す必要はないのです。わたしたちが捜しているマコトの神、まことの救い主はこのお方なのです。「他でない、他を捜さなくてよい、わたしである」と言われる方に、わたしたちは出会っているのです。アーメン

(2023年1月8日礼拝説教より)

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