札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「わたしの葬りの日のために」

更新日:2012.8.5

ヨハネによる福音書12章1-8節

牧師:米倉 美佐男

過越祭の6日前の話です。主イエスにユダヤ教の当局者から逮捕状が出されています。主は危険を避け、荒野に近いエフライムという町に潜んでおられました。しかし、大胆にも過越祭の6日前にベタニヤへ現れました。ラザロやその姉妹、マルタとマリアに会うために来られたのです。
マルタは給仕をしています。ラザロはお呼ばれされたお客の一人のように座っています。イエスもその食卓に加わっておられます。その時妹のマリアが高価なナルドの香油の壷(1リトラ入り)を持ってきてイエスの足にぬり、自分の髪の毛でぬぐいました。その時、家の中は香油の香りでいっぱいになりました。
1954年版の讃美歌391番、「ナルドの壺ならねど」をよく覚えていますでしょう。残念ながらその香りを知りませんが、かぐわしいというイメージを想像できます。香油と訳されている言葉は、「没薬」です。それは葬りの時にも用いられます。ナルドの香油は1リトラ、300デナリオンもする大変高価なものでした。1日分の賃金が1デナリオンと言われていますから相当高価なものです。それをイエス一人のために使ってしまうのは確かにユダでなくても、もったいないと思います。困っている人のために用いられたらと思うのは当然といえば当然です。ただクレームをつけたユダは純粋にそう言ったのではないというのがヨハネ福音書の説明です。もったいないは私たちの感覚、価値観です。問題は主に何を献げるかなのです。
「わたしの葬りの日のために」、マリアのした行為の意味は、彼女が意図的にしたかどうかは問題ではなく、彼女の行為をイエスがどう受け止められたかが大切です。マリアのした行為を主が良しとされたことが重要です。主が葬りの用意としてこの行為を位置づけられたがゆえに、その行為によって家中が良い香りでいっぱいになりました。それは福音が世界に広がったことを聖書は告げています。葬りの日、それは十字架です。主の十字架を思うことは同時に復活を思うことです。香油を足に塗る行為は、死者を没薬で清める行為です。葬りの用意は次に続く復活の希望へと私たちを導くのです。ラザロもまた同じように主を信じる者によみがえりの希望を与えているのです。マリアは人が何と言おうと主に最上のものを献げました。人間の思いの優先ではなく、私たちをよみがえらせるために十字架にかかられ、葬られ蘇られた主イエスを愛する者として、感謝と喜びを持って、精一杯の献げものをいたしましょう。

(2012年8月5日礼拝説教より)

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