札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「美しき献身」

更新日:2021.7.5

マルコによる福音書14章3~9節(新約90頁)

小林克哉 牧師

イエスさまがシモンの家で食事の席についておられると、一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺」を持って入って来ました。300デナリオン(1デナリオンは1日の労働賃金)もの品を惜しみなくイエスさまに献げたのです。
そこにいた人たちは、無駄遣いだ、もったいないと言いました。当時、女性が男性の食事の席に入ってくることは非常識でしたし、食事中の部屋に香油の匂いで充満し食事どころでなくなったでしょう。決してほめられた行為ではありませんでした。非常識と言われてもしかたがなかったのです。しかしイエスさまは言われました。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6節)
「良い(カロン)」は「美しい/正しい」とも訳せる言葉です。この女性はイエスさまに思わぬ声をかけてもらいます。周りはほめてくれないかもしれない。しかしそれを良いこと、<美しき献身>と言ってくださるのです。考えてみますと、わたしたちがなしていることというのは、それ自体で正しいことか良いことかどうしてわかるでしょう。世間の常識が間違っていることもあります。その時点で良かったと思っていたことが後で悪かったと気づくこともあります。ただイエスさまが、わたしたちの行いを、「わたしに良いことをしてくれたのだ」と受け入れてくださるならどうでしょう。
イエスさまはこの女性が香油を注いでくれたことはご自身の葬り=十字架の備えであると言われました。中世の代表的説教者ボナヴェントゥラは言いました。「全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。」神の御子の十字架の血潮一滴で十分であるなら、主が十字架で血を流し尽くされたのは無駄遣いだったのでしょう。父が子を十字架で犠牲にすることは、人間なら非常識と言われ、ほめられた行為でないかもしれません。しかし主は背く罪人のために命を与え尽くしてくださったのです。このキリストの美しき献身がわたしたちを救うのです。

(2021年6月27日礼拝説教より)

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