札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「成事vs謀事」

更新日:2014.3.31

箴言16章1-3節(旧P1011)
マルコによる福音書8章27-33(新P77)

宣教師:ディヴァン・スクルマン
(台湾基督長老教会宣教師)

私たちは毎日の生活の中で、なかなか思うように事が運ばず、いらだつことが多い。自分の立てた計画が自分の上にのしかかって来て、その重荷に押えつけられるように感じる時、その重荷を転がして主に担っていただくなら、主がすべてを成してくださるというのであります。主は日々私たちのために重荷を担って下さっています。

新約聖書のマルコによる福音書8章27−30節には、イエスは弟子たちに「群衆は私のことをどう思っているか」と問うています。群衆はイエスは病気を癒し、悪魔を追い出すことが出来る人というだけの認識でした。だからイエスは何回も弟子たちに自分のことを教えました。これからエルサレムに行って、苦難を受けるということです。

31−33節にはイエスはペトロを厳しく責めています。ペトロはただ人の考えや思いによって行動しましたが、神の思いが分りませんでした。また、ヤコブとヨハネ二人の兄弟もイエスがこれから苦難を受けることは理解できませんでした。ですから彼らもイエスにこのような願いをしました。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)と願っていました。

私たちもペテロ、ヤコブとヨハネの兄弟と同じように、本当に何を願っているか?何が正しいのか?分からない存在です。謀り事とはお互いが助け合い、協力、良いものを取り入れ、足りない事には補い、心を開いて、いろいろな人の意見も聞き、あとは神さまに委ねることが、人間に与えられている謀り事だと思います。
私たちは神の御声に静まって聴き、祈りの中から何を求めているか?何が今必要なのか?自ずと指し示されるのではないでしょうか?

(2014年3月23日礼拝説教より)

前のページに戻る