札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「父なる神の愛」

更新日:2012.6.24

ルカによる福音書15章11-32節

牧師:榮 潤子

イエス様の祈りは「父よ」という呼びかけではじまる。私たちの祈りも「天の父なる神様」と呼びかけ、主の祈りでも「天にましますわれらの父よ」と言っている。これはイエス様が私たちに教えてくださった神への呼びかけである。その父なる神様はどんなお方かを今日の聖書はたとえ話しをとうして教えている。

イエス様のまわりには当時の徴税人、罪人〔掟を守れない人〕が集まってきていた。イエス様はどんな人でも受け入れ、食事も一緒にしていた。これを批判した律法学者やファリサイ派の人々は「なぜこのような人と食事を共にするのか」と言った。この言葉に対してイエスさまは「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」のたとえを話された。

二人の息子を持つ父が、始めに弟息子の希望にこたえて財産を分けてあげる。彼は喜んで出かけ、父の目のとどかないところで放蕩の限りを尽くし財産を使い果たす。豚の世話をする仕事をするが空腹に耐えかねたとき、本心に立ち返り自分を愛してくれた父を思い出す。そして父に自分の罪を言いあらわし、謝ろうと考えた。家に近づくと父親はまだ遠くにいる息子を見つけると走りよって迎えた。弟息子は「私は天に対してお父さんに対しても罪を犯しました」といい、謝る言葉をみんな言わないうちに父親は使用人に、服と指輪と履物を用意させ、祝いの席の準備をさせた。父は息子を赦して迎えたのである。

このことを知らずに帰ってきたもう一人の息子は、父親の喜ぶ姿を認められない。自分は親の元で真面目に働いていたのに。子ヤギ一匹くれなかった。
この父親は天の父なる神を表わしている。自分の罪に気づき赦しを求めるものを赦す神である。然しそれだけで終わりではない。

イエス様を批判していた律法学者、ファリサイ派の人々には救いの道はないのか。そうではない。この真面目な人は神を必要としていない、自分は正しい、と思い込んでいるところに罪がある。父の愛は人間の常識的な愛を超える愛である。この兄の立場にある人々のためにもイエス様は十字架についてくださった。

この兄の姿はむしろ私たちの姿ではないだろうか。信仰を持って生きていることは、赦されて生きているのである。

(2012年6月24日礼拝説教より)

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