札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「《灯台》不完全を認めるものこそ用いられる」

更新日:2021.7.30

江別教会 榮 忍牧師

与えられた箇所は、マルコ福音書の本来の終わりである8節の「なぜならば」への応答のように後から付加されたもの。その応答は、今も続くのではないだろうか。
裏切りのユダを除く11人が食事(極めて密な関係)をしている席に、主イエスが現れる。そして弟子たちの不信仰を嘆き咎める。共に生活していた時も、復活の証言を聞くことにおいても、弟子たちの不信仰、無理解は解消されていない。驚くべきことに、主はその復活の知らせを信じなかった彼らに福音宣教を委託される。仲間内の輪にいた彼らに、まず、福音を伝えるように求めている。強く完全な者になってから、という必要はないのだ。
旧約においても、イスラエルを「かたくなな民」と指摘し、「『大きく、強かったから』『正しかったから』選ばれたのではない」と繰り返し語られる。神の選び・愛があって初めて神の偉大な業は為し得たと心に刻むことが求められている。新たな契約としての「罪の赦しの福音」を受け継ぐ教会も、同様ではないか。主イエスは、不信仰な者に宣べ伝えることを赦されている。「自分には無理だ、力がない、信じていると胸を張れない」、弟子たちも同様だったのだ。「それでよい、行きなさい、そして、伝えなさい」と主イエスが押し出してくださる。
コロナ禍にあって動きが制約され、教会の交わりを取り戻したいと願っている。その教会に主イエスは言う。「福音を宣べ伝えよ」と。甘く密接な食事の席から離れて、出て行くことが弟子たちに与えられた使命だった。主イエスの命令に従い、疑いがあっても伝える。不完全な私たちそして教会を、主イエスの愛が広く包んでくださっている。壁も、衝突もあろう。それでも、主の復活と赦しの福音を語る。そのことによって「信じる者になる・される」ということが起こる。伝えなければ、生起しないのだ。

(2021年7月25日礼拝説教より)

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