札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「何の権威で」

更新日:2018.2.13

マタイによる福音書21章23-32節(新約P41)

牧師 米倉 美佐男

「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(23節)

イエスが神殿の境内で教えておられた時のこと、イエスのところに、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言ったのが冒頭の言葉です。ここで言われているのは「権威」の問題です。祭司長、長老たちはイエスに対して、あなたは神殿で語る資格はない、何の資格で語っているのかと言っているのです。以前からの宮きよめでのできごとやさらに病人たちへの癒しのことも含めてのいいがかりです。

それに対しイエスはお答えになられました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。」と。そしてヨハネの洗礼は天からか、それとも、人からかと問われたのです。この問いに対し、彼らは口を濁しました。そして「分からない」と答えたのです。その理由はどう答えても自分たちが不利だと分かっていたからです。イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われました。

28節以下の譬えの意味は明らかです。兄は最初父の求めであるブドウ園に行って働けと言われた時、最初は嫌だと断りましたが後で考え直して行きました。弟は承知しましたと言いながら行きませんでした。父の求めを実行したのはどちらかと問われると祭司長たちは迷わず「兄です」と答えます。自分の身に不利、危険と察知すると分からないとごまかし、傍観的話題では即座に正論を答える。このようなご都合主義を主は喜ばれません。ユダヤ人たちの指導者は自分たちの地位や名誉を守るために、ヨハネという天から権威付られた証人がいるにもかかわらずその証言を拒否したのです。何を示されても彼らは拒絶するのです。本当に大事なのは誤りを考えなおして(悔い改めて)神の権威をお持ちのメシアを信じることなのです。

(2018年2月4日主日礼拝説教より)

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