札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「生きた水が流れ出す(ヨハネ21)」

更新日:2022.4.5

ヨハネによる福音書7章32~53節(新179頁)

小林 克哉牧師

誰でものどが渇く経験をしたことがあるでしょう。冷たい水をゴクリと飲む。体中に染み渡っていく。再び命を与えてくれるように感じる。それではわたしたちは魂の渇きは自覚しているでしょうか。
イエスさまは「だれでも」(37節)と言われます。魂の渇きに気づいている者も、気づいていない人も、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」他の所に行って飲んでも仕方がないのです。名誉、自尊心、お金、健康・・・・。それらが本当に魂の渇きをいやせるか。イエスさまは更に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)と言われます。自分の渇きがいやされるだけでない。その人から命の水が川のように流れ出ると約束してくださるのです。
わたしたちはイエスさまのお言葉を聞て信じることへと招かれています。信仰とは信頼と服従という二つの面を持っています。十字架の愛とその信実さと出会う時、神への、イエス・キリストへの深い信頼が与えられます。そして信頼するお方の命令は正しく、しかもわたしの救いのためでもあることがわかりますから、信頼から御言葉への服従が生じるのです。
洗礼を受ける姉妹がいます。渇きに気づき、イエスさまのもとに来て飲んだ。信じて洗礼を受けます。先に信じて飲んでいた人たちから、命の水が流れ出ていたのです。この姉妹にとってそれはわたしたちの教会でした。わたしたちは自らの信仰を誇ることができるような者ではありません。弱く罪ある者たちです。そんな罪人の集まりにもかかわらず、わたしたちの内から命の水が流れ出たのです。そして洗礼を受けるこの姉妹からも流れ出るようになるのです。
御言葉は、それは聖霊のことであると教えています。わたしたちが努力し、頑張れば、生きた水が川となって流れ出るのではありません。聖霊が働いてくださるのです。わたしたちは礼拝の度ごとに新しく命の水をいただき、渇きをいやされ、命を与えられ生き返っています。そのわたしたちが、生きた水が川と流れ出ることに用いられているのです。一人の姉妹の洗礼の出来事は、イエスさまの御言葉の約束がわたしたちの内に実現していることのしるしです。アーメン

(2022年3月27日礼拝説教より)

前のページに戻る