札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「独り子を与える神の愛(ヨハネ8)」

更新日:2021.12.8

ヨハネによる福音書3章16-21節(新167頁)

小林克哉 牧師

アドヴェントクランツの最初のろうそくに火が灯りました。アドヴェントという言葉はラテン語のアドヴェントゥス(到来・到着の意)から来ています。救い主キリストの到来を告げているのです。神はこの世界に来てくださいました。福音書記者ヨハネは救い主イエス・キリストの到来を、父なる神の御業として次のように語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)
この到来は「光が世に来た」とも言われています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(19-20節)憎まれ避けられることが分かっていても来られたということです。人々は光の方に来ない。そのことを分かった上で、光は人々の方に来た。神はその独り子をお与えになられたのです。
ある方の大切な一人娘が難病となられました。手術室の中から娘の叫び声が聞こえて来た。代われるなら代わりたい。ただ祈るしかなかった。その時、思ったというのです。父なる神は愛する独り子が十字架で叫ぶのをどのような思いで聞いておられたのだろうか。代われるものなら代わってやりたい。しかし人を救うためにはマコトの人となられた神の御子が身代わりに犠牲とならなければならない。自分自身を犠牲にするよりも大きな愛。愛する独り子を与える愛。
自分を憎み、嫌い、逆らい、避け、逃げる者を愛する。滅びずに救われるためにです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(17節)独り子を与える愛。これはわたしたちには本当は分からない愛です。そこまでの愛をわたしたちは本当には分かることはできないのです。しかしその愛で父なる神はわたしたちを愛してくださったのです。そのことを知ったなら、どうして神の独り子の名を信じないことなどあるでしょうか。アーメン

(2021年11月28日礼拝説教より)

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