札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「本当に大切なものは目には見えない」

更新日:2014.9.8

ヨハネによる福音書9章35-41節(新P186)

牧師:伊藤 悟(青山学院大学教授)

ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった男には何の関心ももっていません。彼らは彼を利用しただけです。これは私たちの生き方に限りなく近い生き方ではないでしょうか。自分の都合や自分の関心のあることだけに目が向いて神や人を利用する生き方です。結局、彼は外に追い出されました。しかし主イエスは彼のことを気にしていました。そして彼と出会うと主イエスの方から、「あなたは、人の子を信じるか」と声をかけられました。すると彼は、「主よ、信じます」と言ってひざまずいたのです。ひれ伏して拝んだ、礼拝したということです。今まさに、私たちは彼と同じ状況にあります。一週間の歩みを終えて、疲れを覚え、放り出されてさまよっているこの私を、神ご自身が捉えて、見ること信じることを求めておられるのです。

私たちは即座に「主よ、信じます」と応えられるでしょうか。ヨハネ福音書では見るというのは信じることです。信じることは見えることです。それなのに私たちは、近視眼的に目の前のことに追われ、見なければならないものを見ようとしません。自分の思い通りの人生を作り上げることに必死になっています。私たちが洗礼を受けてキリスト者になるというのは、自分の力に頼って生きることを辞めるということではなかったのでしょうか。そのような生き方にピリオドを打って、「主よ、信じます」と言ってひざまずく生き方、礼拝する生き方へと招かれたはずではなかったでしょうか。

あの男が見えるようになったのも、主を見出したのも、信じるようになったのも、彼自身の努力によるものではありません。彼はただ神の大きな恩寵に圧倒されて、神に養われる者にされていったのです。主イエスは言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見えるとあなたがたは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」見えると自負すること、見えていると錯覚することが世界や平和を作るのではなく、ひたすら創り主なる神の恩寵の前にひざまずくことによって、私たちは愛し合い、いたわり合い、祈り合う世界、そして教会を作り上げて行くのです。

(2014年8月31日創立記念特別伝道礼拝説教より)

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