札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「少しも無駄にならないように」

更新日:2016.2.29

ヨハネによる福音書6章1-15節(新P174)

牧師 米倉 渚

五千人の給食と呼ばれるとても有名な聖書の箇所ですが、ヨハネによる福音書ではイエス様の弟子の名前が記されております。
イエス様を求めてやってきた大勢の群衆がやってくるのを見てイエス様は弟子たちを試されました。「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいのだろうか。」フィリポは「めいめいが少しづつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りない」と言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」今ある現実を言ったアンデレ。自分たちの持っているものでは、とてもこの群衆を満たすことなどできないとあきらめているのです。
しかし驚くべきことが起こります。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人に分け与えられた。…欲しいだけ分け与えられた。」「人々が満腹したとき、イエスは『少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい。』」と命じられ「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」とさらに驚きの上に驚きを与えられます。イエス様は大勢の群衆を満たし、なおパン屑はあまったのです。
パン五つと魚二匹を差し出した少年はたくさんの有り余る物からそれを差し出したわけではありません。少年自身も、この少年の家族にとっても必要なパンと魚であったと考えられます。しかし、イエス様のお弟子さんを通してイエス様に用いてもらおうとそのパンと魚を差し出したのです。イエス様はそのパンと魚を大いに祝福し用いられたのです。
イエス様は「わたしは命のパンである」と言われました。イエス様がわたしたちを真に生かすパンとしてご自身を十字架に差し出してくださったことをこのレントの時も覚えて歩みます。わたしたちも「無理だ」「不可能だ」とお弟子さんたちのように目の前の現実にあきらめてしまうこともあるかもしれませんが、少年のように差し出すとき、イエス様がそれを大いに祝して有り余るほどに用いてくださるでしょう。

(2016年2月21日受難節第2主日礼拝説教より)

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