札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「十字架」

更新日:2013.4.22

ヨハネによる福音書19章16b-27節(新P207)

牧師:米倉 美佐男

主イエスの十字架と復活が私たちの信仰です。四つの福音書は十字架の記述を様々な角度から描いています。ヨハネにも特有の記事があります。十字架を途中で負わされたクレネ人シモンの記述は無く、主イエス自らが十字架を背負って刑場に行かれたと書かれています。十字架の罪状書きが三つの国語、へブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたとも。それをめぐってユダヤ人の王としないで自称にしろというユダヤ人側の強い要望を総督のピラトが拒んだこと等が記されています。

ヨハネは明確に主イエス自らが十字架を担われたことを証しています。十字架に向かう主の姿勢が私たちの罪を赦すために贖いとなられた姿であったことを。それはあたかもアブラハムがイサクを奉献する時に、イサク自ら焚き木を背負い歩んだ姿と重ね合わせているかのようです。罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。多くの人々が目にしたことでしょう。ユダヤ人だけでなく多くの国の人々が。罪状書きのことではユダヤ人の脅しを受けてもピラトは一歩も引きませんでした。

ピラトがどのような意識でそうしたかは分かりません。
結果的には主イエスが真の王であることの意味をはっきりとさせることとなりました。ユダヤ人の要求するように自称とすれば、イエスが勝手にそう言っているとなりますが、あえてユダヤ人の王、ナザレのイエスとしたことで、しかもギリシア語、ラテン語の読めるものたちが見たのですから世界中の多くの人々が十字架にかかられた主イエスは王であったと知らされたのです。十字架の時に、着ていた衣服は剥ぎ取られ、丸裸にされました。そうされることで主は神の栄光を身に纏われたのです。しかも主は私たちを執り成す大祭司として自らを犠牲とされたのです。ナザレのイエスはユダヤ人の王にとどまらず、信じる者の王であり大祭司であるのです。

(2013年4月14日礼拝説教より)

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