札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神が墓に納められた日(ヨハネ56)」

更新日:2023.4.4

ヨハネによる福音書第19章38~42節

小林克哉 牧師

使徒信条にはキリストの教会に与えられている信仰が告白されています。神がわたしたちを救うために何をしてくださり、何をしておられ、何をなさると約束しておられるのかが告白されているのです。「主は・・死んで葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより」とあります。今朝の聖書がイエスさまが墓に納められたと告げ、使徒信条が「葬られ」と告白するのは、イエスさまが決して仮死状態だったのではなく本当に死なれたのだということです。われらの神、われらの主、独り子なる神イエス・キリスト(メシア)は死人となられた。イエスさまがご遺体となってくださったのです。これがわたしたちに与えられている信仰です。わたしたちを救う福音なのです。
また「陰府」とは神の光さえ届かないと思われていたところです。イエスさまは陰府に降り、陰府でさえ共におられるのです。死んだらおしまいとよく言います。確かに死んだらおしまいなのです。それが人間の現実であり限界なのです。しかしそのおしまいのところにもイエスさまは共におられる。死んでおしまいとなり遺体となったとしても、主はわたしたちと共にいることができるし、共におられることを信じてよいのです。そしてイエスさまによって、おしまいがおしまいでなくなる。おしまいのところから、イエスさまの共にいます恵みにより、神の大能の御力により始まるのです。
今朝の御言葉は、わたしたちに〝死〟の問題を無視して生きることができないことを思い起こさせます。すべての遺体となる人と同じマコトの人とイエスさまはなられた。このイエスさまが神の子、メシア(キリスト)、救い主なのです。イエスさまは病の日にも共にいてくださいます。今死に行くという瞬間にも共におられるのです。そしてイエスさまは息を引き取り遺体となった人間と共におられるお方なのです。イエス・キリストは本当に死なれ墓に納められたのです。死を引き受ける神、陰府まで降る神であられるのです。「その日は、ユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」(42節)アーメン

(2023年3月26日礼拝説教より)

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