札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神の宝が納められている器」

更新日:2023.10.23

コリントの信徒への手紙二 第4章7-15節

小林克哉牧師

ある人が、キリスト者には絶望がないと言いました。なぜなら神がおられるからだと言うのです。絶望状態のことを八方塞がりと言うことがありますが、旧約の表現では天が閉じると言います。たとえ四面楚歌になっても天が開いているなら希望は失われていないということでもあります。
神がおられるということは、たとえ八方が塞がっていても天は開かれているということです。十字架により罪の赦しがもたらされ、天を覆う神と人間を隔てていた暗雲は取り除かれたのです。パウロは言います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(8-9節)キリストにより天は開かれています。
パウロにとって苦しみは、イエスさまの苦しみ、その死の姿につながることでした。福音のために生きるわたしたちのすべての苦しみもそうです。イエスさまが、その死により人々に救いを与えられたように、十字架のイエスさまに結ばれた者とされて、パウロはキリストと共に苦しみ、イエスさまの死に連なり、人々の救いのため、伝道のために用いられたのです。
病を得て体に不自由を抱えながら闘病生活をした方がありました。その方の葬儀のとき説教を聞いた息子さんがわたしに言いました。「父が病を得て尚希望を持って生きていたのがどうしてなのか分かりました。信仰だったのですね。」その後、お連れ合いが教会に通うようになり洗礼を受けました。「生きている時に一緒に教会に行こうと誘ってくれたらよかったのに…。」と言っておられました。
パウロは言います。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(7節)わたしたちには〝宝〟が与えられています。よくキリスト者は「子どもには信仰だけは手渡したい」と言います。よく「父や母が残してくれたもので一番は信仰です」とも聞きます。わたしたちの家族や友人、この町この国この世界に住む人々にこの福音という宝をどうして伝えずにいられるでしょうか。アーメン

(2023年10月15日礼拝説教より)

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