札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「わたしは命のパンである」

更新日:2012.1.15

ヨハネによる福音書6章34-59節

牧師:米倉 美佐男

「そのパンをいつもわたしたちにください。」(34節)。
人間は大変怠惰な生き物です。すぐに楽をしようとします。なるべく辛い思いや苦しい思い、大変な思いをしないで楽をしたい。そのような思いがあることを否定できません。それは信仰においても同じように言えます。今朝の聖書の箇所から「信仰」とは何か、キリスト教の信仰について聖書が語っていることを聴き取りたいと思います。

第1は34-40節に「わたしが命のパン」と主イエスが宣言されています。この後わたしが(エゴー)「世の光」「羊の門」「良い羊飼い」「よみがえりであり命」「道、真理、命」「ブドウの木」である(エイ ミー)と言われています。それはご自身をみんなに示して招いておられるのです。第2は41-51節に、主の招きを受け入れられず、認めようとしない者たちのつぶやきと、それにもかかわらず、なお招かれる主のお姿が示されます。第3は52-59節に私たちの信仰の本質を明らかに示します。十字架と復活信仰がそれです。私たちは主イエス・キリストの肉と血にあずかる恵みを与えられているのです。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(35節)。信じる者は救われるのです。問題なのは目の前におられるイエスを見ながら、正しく見ることのできない不信仰です。み言葉を聞きながら、正しく聞かず聞き流してしまうような怠惰さです。神のみ旨を求めずに自分の思いを優先させる自己満足が自らの信仰を歪め撓めるのです。命のパンであるみ子をお遣わしにならた父なる神のみ旨は、子であるイエス・キリストを信じる者がみな永遠の命を得ること、キリストを信じる者が終わりの日に復活することです。眞の神にして眞の人であるイエス・キリストを「生きたパン」「命のパン」として食する(信じる)ことです。

(2012年1月15日礼拝説教より)

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