札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「悔い改めるだけで」

更新日:2013.11.18

ヨナ書3章1-10節(旧P1447)
マタイによる福音書12章38-42節(新P23)

牧師:榮 忍
(とわの森三愛高等学校長)

主イエスが神から遣わされた者なのか否か、と当時の指導者も迷ったようです。そこで、イエスに尋ねるのです。「もしそうなら、しるしを見せてくれ」と。主イエスは、この問いに「示されるしるしは、ヨナのしるししかない」と応じます。ヨナの話は有名ですが、改めて振り返ってみると、多くの事柄を学べます。

ヨナは、預言者として神から役割を与えられているにも拘らず、「行って、語れ」との神の指示に背くのです。語るべき相手が異邦人・異教徒でありましたから、ヨナが語ったとしても耳を貸さないだろうという可能性はありました。また、普段関わりを持たず、蔑んでいる人々に語ることが、ヨナのプライドを損ねたのかもしれません。いずれにせよ、預言者が逃げ出したのです。当時、おそらく最果ての地とされたタルシシュに向かう船に乗り込むのです。嵐が航路を阻み、自分に原因があると覚悟したヨナが、自分を海に投げ込めと求め、他に手立てを失った船乗りが言葉通りにすると嵐が止みます。大魚に飲まれたヨナは、三日の時をそこで過ごします。主イエスが墓に葬られ、三日目に復活されたことが思い起こされます。ヨナは吐き出され、最初の使命に引き戻されて、ニネベの町に「このままでは滅びる」と、呼びかけるのです。

神の言葉は、人の思いを超えて働きます。ニネベの人々は町全体で悔い改め、その様子を見て神は滅ぼすことをやめるのです。この神の方針転換に不服を唱えるヨナは、主イエスの「放蕩息子のたとえ」に出てくる兄のようです。善行を積むことをはじめ、人間は条件を勝手に作り、神の救いを左右できると錯覚します。でも、聖書は教えるのです。「悔い改めるだけでよい」と。それは即ち、神を神として認め、受け入れることです。神などなくても生きていけると思う傲慢(これこそが聖書の示す罪です)から離れることが、悔い改めです。
聖書に触れ、神の救いを信じる教会に集うわたしたちが、諦めてないでしょうか。「どうせ聞いてはもらえない」と、家族に、友人に、同僚に、神の救いを伝えることを諦めていないでしょうか。神様が用いてくださるなら、その時が来ると信じて、繰り返し語りましょう。「悔い改めるだけで、救われるのです」と。

(2013年11月10日礼拝説教より)

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