札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「信じて祈るならば(マタイ84)」

更新日:2026.3.15

マタイによる福音書第21章18‐22節

小林 克哉 牧師

エルサレムに入城されたイエスさまは、まず神殿に行かれ、いわゆる「宮きよめ」をなさいました。イエスさまは神と民(人)とのまことの礼拝(愛の交わり)を回復するために十字架の待つエルサレムにやって来られたのでした。
翌朝、イエスさまが弟子たちと歩いておられると、道端にいちじくの木を見つけられました。近づくと葉は茂っていましたが実は一つもありませんでした。イエスさまが「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(19節)と言われると、木はたちまち枯れてしまったのです。
弟子たちは驚き、どうして枯れてしまったのかを尋ねました。イエスさまは言われました。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21-22節)
イエスさまは、主なる神は山をも動かすことがおできになるお方であることを弟子たちに示されました。愛と恵みの神はまた力の神、全能の主であられます。
山とはそこにあって決して動かないもの、変わらないものでしょう。わたしたちが熱心に祈れば、その祈りの力によって山が動くのではないのです。わたしたちにはそんなことはできません。しかし神は山を動かすことがおできになるのです。
いちじくの木が枯れる出来事は、わたしたちが神に背く罪のゆえ滅びいく者であることを暗示すると共に、その罪と神の裁きとしての死を引き受けてイエスさまが十字架で死なれることを暗示していると言えます。神はイエス・キリストの十字架によって、わたしたち人間の力ではどうすることもできなかった罪や死という山をも動かしてくださり、罪の赦しと永遠の命を与えてくださったのです。わたしたちはこの神の愛と力を知り、信じる者とされ祈るのです。アーメン

(2026年3月8日礼拝説教より)

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