「神の家、祈りの家、教会(マタイ83)」
更新日:2026.3.9
マタイによる福音書第21章12‐17節
小林 克哉 牧師
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」(13節)イエス・キリストは神殿の境内に立たれ言われました。神が預言者を通して語れたことでした。父なる神は御子イエス・キリストによりそれを実現されるのです。神の家は祈りの家であり、それが礼拝であり、教会なのです。
ある教会が会堂建築の資金を集めるため、安く仕入れた野菜などを売るミニバザーを毎週行っていました。礼拝前、野菜を買う人で騒がしくなっていました。次第に「何をしに教会に来ているのかわからない」との声が聞こえるようになりました。確かに会堂建築は大切ですが、礼拝がなおざりになっていては本末転倒です。さすがに礼拝前のミニバザーは止めることにしました。
「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」(12節)イエスさまは言われます。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」(13節)商売をする台も品物も何もなくなった神殿の境内には、ただイエス・キリストだけが立っておられます。神殿にまことの神であるお方が立たれたのです。そして神の言葉が語られたのです。
神殿は神の家であり、祈りの家。教会もまた神の家、祈りの家です。神に礼拝をささげ、祈るところです。わたしたちは洗礼により神の御子であるイエス・キリストと結ばれ、神に「愛する子よ」と呼ばれ、神に「父よ」と親しく呼ぶ〝祈り〟を可能とされるのです。神に愛され神を愛する神とのまことの交わり=〝祈り(礼拝)〟を与えられるのです。
そのためにイエスさまは十字架で死んでくださいました。神に背く罪ゆえ聖なる神に近づくことのできなかったわたしたちの罪を赦すため、十字架で贖いの死を遂げられたのです。そして今日も神の家、祈りの家であるこの教会のただ中に立たれ語っておられるのです。アーメン
(2026年3月1日礼拝説教より)
