札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「主よ、憐れみ、目を開けたまえ(マタイ81)」

更新日:2026.2.24

マタイによる福音書第20章29‐34節

小林 克哉 牧師

イエスさまがエリコの町を出ると、道端に座っていた二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(30節)と叫びました。人々はうるさいと制止しようとしましたが、イエスさまは立ち止まられ、「何をしてほしいのか」(32節)と尋ねられたのです。
この箇所の直前で、イエスさまは直弟子ヤコブとヨハネの母に「何が望みか、何をしてほしいのか」と尋ねておられます。その答えは、イエスさまが王座に着くとき、息子たちをその右と左の座に着かせてほしいということでした。偉くなること、地位や名誉、権力を求めたのでした。
わたしたちはどうでしょう。イエスさまに「何をしてほしいのか」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。二人の盲人はイエスさまに叫びます。「主よ、目を開けていただきたいのです」(33節)。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐに見えるようになり、イエスに従った。」(34節)
御言葉は、肉眼のいやしという奇跡以上のことが起こったと記しているのです。「目に触れ」とありますが、「心の目」という意味を含む字が使われています。神が見えていなかった、罪もその赦しも救いも見えていなかったわたしたちの目に、主の憐れみの御手が触れると、見えるようになる奇跡が起こるのです。わたしたちもイエス・キリストに向かって「主よ、目を開けていただきたいのです」と叫ぶように招かれています。
「二人」とあるのは教会を象徴していると言えるでしょう。一人ではなく、わたしたちは教会の交わりの中で、主に祈り、見えるようにされるのです。主の憐れみの御手に触れられ見えるようになるのが礼拝の時であり、信仰であり、救いの恵みなのです。そして、見えるようにされたなら、共にただ十字架の主イエス・キリストにのみ従って行きたいのです。アーメン

(2026年2月15日礼拝説教より)

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