「不可能な救いを可能とする神(マタイ78)」
更新日:2026.2.2
マタイによる福音書第19章16-30節
小林 克哉 牧師
イエスさまは一人の青年に向き合われました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(16節)との問いに、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)と呼びかけられました。このようなことを一体誰ができるでしょう。厳しすぎますが、神の前での完全さが示されているのです。
信仰とは神なしに生きていた者が、神を知り、神の前で生きるようになることです。それは言い方を換えるなら、天を知ることです。人がどうかではなく神に対して、地上でどうかではなく天に向かって生きるようになるのです。イエスさまは、天に富を積み、神の前に生きてごらんと招かれるのです。
イエスさまは財産をみな手放し「それから、わたしに従いなさい」と言われました。財産とは、地位、名誉、お金、周りからの評価、自信や自負、また家族のことでもあったでしょう。青年が依り頼んでいたもの、それによって今の自分があると言えたもの、誇りとしていたものです。
イエスさまはわたしたちが何を持っているか、地位や名誉、お金、評価、自信や自負、どんな家族かに関心があるのではないのです。イエスさまはあなたが何ができるとか何を持っているかではなく、あなたそのものに関心があるのです。あなたそのものを愛しておられるのです。何もないままのあなたでいいからわたしに従いなさいと言われるのです。
「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた。」(26節)神にはできるのです。イエスさまの十字架により、その贖いの御業により、罪の赦しが与えられるのです。持ち物どころか、御自分のすべてを捨て十字架で身代わりとなり犠牲となられたイエス・キリストにより、わたしたちを天の宝、神の大切なかけがえのない存在としてくださるのです。人間には不可能であっても、神はそれを成し遂げてくださる。これが救いです。ここに信仰があるのです。アーメン
(2026年1月25日礼拝説教より)
