「わたしたちの本国は天にある」
更新日:2025.9.30
フィリピの信徒への手紙第3章17-21節
小林克哉牧師
本日は召天者記念礼拝です。天にある者も地にある者もイエス・キリストの十字架により罪赦され贖われ、一つ神の(御国の)民とされていることを特に覚える時です。イエス・キリストの十字架により、わたしたちは本国を天とする者とされ、この地上の旅をしているのです。使徒パウロは言います。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(20節)
この手紙はローマの植民都市フィリピにあった教会へ宛てて書かれたものです。フィリピの町はイタリア半島のローマから遠く離れているところにありました。しかしフィリピの町ではローマ風の生活がなされており、フィリピの住民の殆どがローマ市民権を持っていたのです。そのことがフィリピの町の人々の誇りであったかもしれません。そのような町に住むフィリピ教会の人々に向かって、わたしたちの本国はローマではなく、天なのだとパウロは語りかけたのです。
キリスト者とは本国である天に向かい旅する者です。この世に完成があるのではないのです。わたしたちは救い主であるキリストが再び来てくださり、神の国を完成してくださる日を待ち望んでいます。わたしたちは完全ではありません。罪があり欠けがあり弱さがあります。パウロが「わたしに倣う者になりなさい」(17節)と言う時、わたしは完全ではないが、ただ恵みによりキリストに捕らえられている。その〝わたし〟に倣えと言うのです。
先に天に召された兄弟姉妹たちの姿を思い起こします。当たり前ですが完全な人など一人もいません。罪があり欠けがあり弱さがありました。しかし恵みによりキリストに捕らえられていたのです。天を本国とする者として、地上の旅路を歩んだのです。続くわたしたちも同じです。罪があり欠けがあり弱さがあります。しかしイエス・キリストの十字架により罪赦され、神の子とされ、本国である天に向かって旅する者とされているのです。十字架の主イエス・キリストと顔と顔とを合わせてお会いする日に向かってです。アーメン
(2025年9月21日礼拝説教より)