「神が与えるしるし(マタイ54)」
更新日:2025.5.26
マタイによる福音書第12章38-45節
小林 克哉 牧師
イエスさまは目が見えず口が利けない人をいやされました。群衆はイエスさまのことをメシア(救い主)ではないだろうかと言います。しかし、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」(38節)のです。いやしの奇跡だけではダメ。もっとすごいことができるのではないか。メシアの証拠=しるしを見せろと言ったのです。
満たされない心、その人生を満たすため人は何を求めるのでしょうか。一つ手に入れば次はこれと欲望はエスカレートしていくものです。それは隣人に対しても、神に対してもでしょう。そこにわたしたちの罪があるのです。求めるものがなくなれば、最後にはしるしとして「あなたの命をよこせ」と言い出すことになるのでしょうか。
神はしるしを与えられます。しるしと言っても神の愛そのもの、救いそのものをです。イエスさまは言われます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(39-40節)
「人の子も三日三晩・・・」とは、イエスさまが十字架で苦難に遭われ、死んで陰府に降られる出来事を指しています。イエスさまは三日目にご復活なさいますが、その苦難と死の三日間、すなわちイエスさまの十字架以外に、神さまからのしるしは与えられないと言われたのです。
神はただ一つのしるしを与えられます。神は命を与えてくださったのです。愛の大きさはその払った犠牲の大きさによって分かるのです。もっともっとと言う人間に対して、これでもかこれでもかと、その命さえ惜しまず与え、愛を与え、愛を示してくださったのです。神がわたしたちを愛し、その罪を赦して永遠の救いを与えてくださることは十字架を見ればわかるのです。十字架以外にそのしるしはありません。だから、むなしさに襲われるとき、自らの罪に苦しむとき、悩みとき、試練の日に、十字架のキリストを見つめればよいのです。アーメン
(2025年5月18日礼拝説教より)