「十字架で成し遂げられた救い」
更新日:2025.4.21
ヨハネによる福音書第19章17-30節
小林 克哉 牧師
棕櫚の主日、受難週を迎えました。イエスさまのご生涯はわたしたちの救いが成し遂げられるためのものでした。そのために十字架におつきになられたのです。「(十字架で)イエスは、すべてのことが成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」(28節)
イエスさまの十字架の御苦しみと死とは、聖書の言葉の実現、すなわち、神の御心、その御計画が成し遂げられたことだったのです。父なる神の御心とは、「子(御子イエスさま)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(第6章40節)だとイエスさまは言っておられました。罪の赦し、復活と永遠の命の救いが、十字架で成し遂げられたのです。
それはまた、神の愛が成し遂げられたことでした。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(第13章1節)とあります。イエスさまは弟子たちを最後の最後まで愛し抜かれました。その極みが十字架なのです。そのことにより神の愛が成し遂げられたのです。
わたしたちの愛はいつでも中途半端なものではないでしょうか。しかしイエスさまによって示された神の愛は違います。イエスさまは弟子たちを愛し、最後まで愛し抜かれました。御言葉が記すのは、イエスさまを十字架につけた兵士たちも、いっしょに十字架につけられた犯罪人たちも、母マリアたちも愛し、愛し抜かれたイエスさまのお姿です。
イエスさまは、十字架でご自身のすべてを一方的に与え尽くされ救いを成し遂げられたのです。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(30節)十字架は神の愛が成し遂げられた出来事なのです。イエスさまが救いを成し遂げられましたので、救われるためわたしたちが付け加えるものはなにもありません。十字架で成し遂げられた救いとその愛をただただ受け取るだけなのです。アーメン
(2025年4月13日説教より)