「傷ついた葦を折らないため(マタイ51)」
更新日:2025.4.8
マタイによる福音書 第12章9-21節
小林 克哉 牧師
マタイによる福音書は、イエスさまがまことのキリスト(メシア)であること、神の子、救い主であることを伝えます。そしてイザヤ書第42章の預言が、イエスさまによって実現したのだと語ります。「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(20節)
イエスさまは安息日の会堂で、手の萎えた人をおいやしになられました。ファリサイ派の人々は、安息日には仕事をしてはならないという安息日規程を破ったと考えました。そこにファリサイ派の人たちの正義がありました。ファリサイ派の人たちは、その正義のゆえに、イエスさまを殺そうと相談し始めたのと言うのです。
わたしたちは何が正義かわかりにくい時代に生きています。国と国、人と人とが自らの正義を主張しぶつかり合っています。誰が正しいのか、何が正しいのか、どのように判断できるというのでしょうか。聖書は神の義(正義)について語ります。それは、安息日に手の萎えた人をいやす神の義=正しさです。この人に、神の愛と憐れみが与えられることこそが、神が正しいとされることなのです。
イエスさまの一番弟子ペトロは、大祭司邸の中庭でイエスさまを知らないと否みました。それはイエスさまへの裏切りであり、深い罪でした。イエスさまは、あらかじめ裏切ることになると、ペトロに告げておられました。それは、裏切るペトロのことをイエスさまが知っておられること、愛と憐れみのうちに置いていてくださることを示されるためでした。ペトロの信仰は今にも消えてなくなりそうでしたが、イエスさまの御言葉がペトロを守りました。
イエスさまは十字架の贖いによって、わたしたちの罪を赦し義としてくださるのです。誰かがあなたを責め立ててきても、イエスさまが守ってくださるのです。今にも折れて朽ち果て、今にも消えてしまいそうな灯心を、その愛と憐れみをもって守ってくださるのです。そこに神の義(正しさ)があるのです。十字架により、人間のあらゆる正義に神の義が勝利するのです。アーメン
(2025年3月30日礼拝説教より)