札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「主よ、この子を憐れんでください(マタイ70)」

更新日:2025.10.20

マタイによる福音書 第17章14‐20節

小林 克哉 牧師

イエスさまは山を下りて来られました。弟子たちは、山の上でイエスさまが神の御子として天の国の光に輝く姿を見たのです。しかし気がつくとそこにはいつもの姿のイエスさまがおられました。そして十字架へと向かうため山を下りて行かれたのです。
山の下にやって来ますと、そこには罪や重荷をいだく人間の日常の営みがありました。ある父親がてんかんの息子のことで悩み、イエスさまの前にやって来てひざまずき嘆願しました。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」(15-16節)
この父親の言葉、その姿には希望と落胆の両方があります。それが聖書の描く人間の姿です。父親は息子を救ってやることができませんでした。父親は無力でした。弟子たちもいやすことができませんでした。弟子たちも無力でした。落胆です。時にわたしたちも経験します。教会もまた自らの無力を痛感することがあるものです。
しかし、そこにイエスさまがやって来られる。そこに希望があるのです。「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。・・・その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。』」(17節)イエスさまのところに連れて行ったのです。この子はいやされました。
信仰とはわたしたちが何かできることではありません。イエスさまはおできになる。そのことを信じることです。「イエスは言われた。『・・・もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。』」(20節)わたしたちの信仰は小さくても、イエスさまは大いなるお方であり、救いの御業をなさってくださるのです。罪を赦し、永遠の命を与えることがおできになるのです。
今日は幼児祝福式合同礼拝です。子どもたちをイエスさまのところにお連れし、イエスさまの愛と憐れみの御手にゆだねたいと思います。アーメン

(2025年10月12日礼拝説教より)

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