札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「自分の十字架を背負って従う(マタイ68)」

更新日:2025.10.6

マタイによる福音書 第16章21‐28節

小林克哉牧師

わたしたちはみな自分の十字架を背負って生きています。負わねばならない責任があり、引き受けねばならない〝わたし〟という人生があります。健康の問題、老い、病、障がい。家族や友人、教会のこと。自分自身の性格も。そして何よりも神の御前での罪の問題があり、死の問題があります。
自分の十字架は重すぎ、大きすぎ、一人では担いきれないと感じる人もあるでしょう。このような十字架がなければいいのにと思うものです。しかしわたしたちは自分の十字架を背負って生きていかなければならないのです。
イエスさまはそのようなわたしたちに道を示してくださいます。「弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(24節)
わたしたちは他人の十字架を代わりに背負うことはできません。しかしイエスさまは違います。イエスさまが負われた十字架は、わたしの罪であり死です。イエスさまの十字架とはこの〝わたし〟であると言ってもよいでしょう。イエスさまは十字架を背負い歩まれ、贖いの死を遂げてくださったのです。
直前の箇所で、ペトロはイエスさまが救い主、生ける神の子であると信仰告白をしました。ところがその直後、イエスさまが十字架について告げられると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)と言ったのです。イエスさまはペトロに「サタン、引き下がれ」(23節)と言われます。イエスさまの邪魔をする者なのです。わたしたちも変わらないのではないでしょうか。分かっているつもりで、実は分かっておらず、御心の実現の邪魔をしてしまうのです。
イエスさまはペトロに、そのようなわたしたちに、「もうついて来なくていい」と言われるのでなく、それでも「わたしに従いなさい」と言ってくださるのです。そしてその時、自分の十字架を背負って歩むこの〝わたし〟を、イエスさまがまるごと背負って歩んでいてくださっていることを知るのです。イエスさまに従うとは、イエスさまに担われ歩むことなのです。アーメン

(2025年9月28日礼拝説教より)

前のページに戻る