「神の御業は一度ではなく(マタイ65)」
更新日:2025.8.25
マタイによる福音書 第15章29‐39節
小林 克哉 牧師
イエス・キリストは病や不自由をかかえている人々をいやされ、また人々に命のパンを与えられました。イエスさまによりなされた神の御業です。これらの御業は、人々に対する主の憐れみによってなされました。イエスさまは神の愛と恵み、その憐れみを人々に与えてくださったのです。それは一人で受けるには豊か過ぎ余りあるものです。「人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。」(37節)
わたしはキリスト者として、また牧師として歩んで来て、主によりいやされていく人々を目の当たりにしてきました。それは肉体的ないやしもありますが、また魂そのものであるその人のいやしと言えばよいか、人生のいやしと言ってもよいものでした。恨みや憎しみに支配され病んでいた人生から、主の愛と赦しのもとに生きるように変えられていく姿を見ました。傷つき悲しみと嘆きに覆われていた人が、主にある希望と喜びに歩み出す姿を見ました。それは確かにいやしであり、いやし以上の救いの出来事でした。
イエスさまの打たれた傷、十字架によりわたしたちはいやされるのです。救いが与えられるのです。主の憐れみを受けるのです。本当のいやしはただ病が治ることだけではありません。神を賛美する者へと変えられる。神に創られ神に愛されている人間が、神を愛し、神を賛美し、神を礼拝する本来あるべき人間へと回復することです。「イスラエルの神を賛美した。」(31節)とある通りです。
イエスさまが人々をいやされるのも、命のパンを与えるのも、それは主の憐れみによることです。イエスさまから与えられる愛と恵み、その憐れみは、一人で受けたらそれで無くなってしまうものではなく、余りあるものです。
主は一度だけでない、御業をなさるお方です。一人をいやし、また一人をいやされます。一人に命のパンを与え、また一人に命のパンを与えられます。そのために、隣人に主の愛と恵み、その憐れみが与えられるために、わたしたちを用いてくださるのです。アーメン
(2025年8月17日礼拝説教より)