札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神の憐れみだけを信じて(マタイ64)」

更新日:2025.8.18

マタイによる福音書 第15章21‐28節

小林 克哉 牧師

イエス・キリストに「あなたの信仰は立派だ」(28節)と言っていただいた人がいます。それは異邦の民カナンの女性でした。この女性の娘は悪霊にひどく苦しめられ、病気でした。母親として娘のためにできること、考え得ることは何でもしたに違いありません。しかし助けてやれなかったのです。そのような自分を、自分で救うこともできず、ただ主にすがったのでした。
この女性はイエスさまに叫びました。「わたしを憐れんでください」(22節)。この女性の祈りに対し、イエスさまはすぐにお答えすることもできたでしょう。ところが、イエスさまはすぐに答えられず、沈黙されます。キリスト者の多くも経験することです。世界の歴史、その悲劇、神さまがおられるなら一気に解決できるのではないか。一人一人の人生においてもです。「神さま、なぜ黙っておられるのですか、何もしてくださらないのですか。」
もし神さまが何でもすぐに適えてくださる便利グッズのような方だったらどうなるでしょう。自分が神となり王となり、神を従わせ便利に利用する。それは〝信仰〟でしょうか。現代に生きるわたしたちは権利主張ばかりしていないでしょうか。こともあろうに神に対してまで権利主張が強すぎるのではないでしょうか。神ならわたしを救うべき、助ける義務がある。それが神を神として崇め、愛し従う〝信仰〟でしょうか。
「どうかお助けください」(25節)。この女性は違います。「ダビデの子よ、あなたがわたしと何の関係もないことは知っております。わたしを助ける義務もなければ、わたしにはお願いする権利もありません。いやわたしには何もありません。パン屑で十分です。わたしを憐れんでください。」ただ神の憐れみだけを信じ、神の御前に来てひれ伏し礼拝をささげるのです。
わたしたちも同じではないでしょうか。イエス・キリストは何もないそのようなわたしたちの〝信仰〟を見て言ってくださるのです。「イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。』」(28節)アーメン

(2025年8月10日礼拝説教より)

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