札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「人の言葉に振り回されない(マタイ63)」

更新日:2025.8.12

マタイによる福音書 第15章1‐20節

小林 克哉 牧師

わたしたちは言葉に囲まれながら生きています。世間の言葉、人の言葉、様々な言葉がわたしたちの耳に、心に入ってきます。それにより喜んだり、悲しんだり、不安になったりしています。またわたしたち自身の心の中からも様々な言葉が出て来ます。怒ってみたり、嘆いてみたり、不平を言ったり。わたしたちはそのようなわたしたちを取り巻く言葉に振り回され、一喜一憂しながら生活しているのではないでしょうか。
今朝の御言葉に出てくるファリサイ派の人々や律法学者たちもそうでした。彼らはイエスさまに言います。「なぜ、あなたたちの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(2節)神がその民に与えられた神の言葉、すなわち律法には直接食事の前に手を洗わねばならないとは書かれてありませんでした。
ところが人々は律法を守るためにと言って、この場合にはこうすべき、あの場合にはああすべきと、自分たちで決まりを作っていったのです。次第にそれが絶対的なものだと主張されるようになったのです。それがここで「言い伝え」と言われていることです。ファリサイ派の人々、律法学者たちはこの言い伝えにがんじがらめになっていたのです。そして人々にもそれを求めました。イエスさまは言われます。「こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(6節)
人の言葉は周りから入ってくるものと共に、自分の内から出てくるものもあります。わたし自身も心の内から罪があふれ出てきます。不平、疑い、不信、諦めもそうかもしれません。そのような時、聖書の御言葉を読む。神の御言葉がわたしの心の向きを変えてくれます。
イエスさまはわたしたちのことを愛し、救い、祝福されたいのです。イエスさまは人の言葉に振り回されなくてよいと言われます。神の御言葉に聞き、そこに留まればよいのだと。神が愛するから、救おうとする、祝福しようとするから語りかけてくださる御言葉に、わたしたちは礼拝の度に立ち帰ることがゆるされるのです。アーメン

(2025年8月3日礼拝説教より)

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