札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神は不信仰な人のもとにも(マタイ60)」

更新日:2025.7.22

マタイによる福音書 第13章53節-第14章12節

小林 克哉 牧師

言葉が届かない、言葉が受け入れられないという経験をしますと、わたしたちは悲しく、時に傷つくことさえあります。それでも尚、相手に向かって語り、伝えることをなし続けることは大変なことではないかと思います。イエスさまは人々から理解されませんでした。受け入られませんでした。イエスさまは一番届けたい相手に言葉が届かないことを経験されました。誤解され、理解されず、しかしそれでもイエスさまは天の国の福音を語ることを続けられたのでした。
御言葉はこう語ります。「イエスは・・・故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』」(53-54節)イエスさまを小さい頃から知っている人々が驚き怪しみました。人々から救い主・メシアでないかと噂されているイエスさまが自分たちの町に戻ってきたのです。錦を飾るような出来事だったのではないでしょうか。ところが人々の反応は違いました。「いったい、どこからこんな知恵を語り、奇跡を行うことができるようになったのだろうか。」
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(57節)と言われたイエスさまは、ご自分がナザレの村に戻れば、人々がどのような反応になるか分かっておられたでしょう。止めておくこともできたはずです。しかし、それでもイエスさまはナザレに行かれたのです。その会堂で天の国の福音を宣べ伝えられたのです。
わたしたち福音主義教会が大切にしてきたのは、説教において生ける神が語りかけてくださっているという神の言葉の出来事です。しかし説教者が語る言葉を悔い改めをもって聞くことができず、ただ反発したり、自己正当化するかもしれない。それでも神はお止めにならない。説教者を立て語り続けられる。つまずかれても、不信仰な者であったとしても、ナザレで語られたイエスさまは、この教会で、この町で、この世界で語りづけておられるのです。アーメン

(2025年7月13日礼拝説教より)

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