「その結ぶ実で分かる(マタイ53)」
更新日:2025.5.19
マタイによる福音書第12章33-37節
小林 克哉 牧師
ある日、イエスさまは弟子たちに「わたしはぶどう木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。」(ヨハネ福音書第15章5節)と言われました。イエス・キリストの教会について、その弟子たち、キリスト者について語られたのです。
ぶどうの木であるイエスさまにつながるとき、イエスさまという木はその枝によって実を付けるのです。イエスさまにつながらない限り、決して結ぶことのない良い実を付けるのです。イエスさまは言われます。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」(33節)わたしたちはイエスさまとつながるために礼拝に来ていると言えます。
反対から言うなら、わたしたちの内には何一つ良いものはないと言うことです。人と人とが比べ合いながら良いとか悪とか言っているのではなく、神の御前に真実に良いもののことについて語られているのです。本当の愛です。神さまの愛です。イエスさまの十字架によって示された愛のことです。それはわたしたちの内にはないのです。まことの信仰。何があっても失われない希望。それらはわたしたちの内のどこを捜してもないのです。
ただ聖霊により、御言葉により、神の愛がわたしたちの内を満たすとき、わたしたちの内から信仰、希望、愛が出てくるのです。聖霊がわたしたちの内に働き、わたしたちの内を満たしてくれるならば、わたしたちの内から信仰の告白が出てくるのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント書一第12章3節)
ぶどうの木であるイエスさまにつながるとき、イエスさまはわたしたちを通して良い実を結んでくださいます。神への祈り、賛美、礼拝が溢れ出すのです。隣人のためのとりなしの祈り、励まし慰める言葉、福音を伝える言葉が溢れ出してくるのです。イエスさまの十字架により示された本当の愛、そしてまことの信仰と何があっても失われない希望という実を結んでくださるのです。アーメン
(2025年5月11日礼拝説教より)